AIの仕事と、人間が考える意味
とうとう、ChatGPTでも、
AIが作成した文書への電子透かしがEUで導入されるようだ。
日本でも、いずれ同様の仕組みが導入されるのかもしれない。
あったかいごでもAIの活用が盛んになっている今日この頃だが、
職員がAIに依頼している業務の一部が、文章作成業務。
定型文や外部へのお知らせ、社内通知など、
発信する内容が明確な状態でAIに文章生成を依頼することは、
立派な業務効率化である。
むしろ、率先して活用してほしい。
だが、最近少々気になることがある。
人に、意見や考えを求めた際に、
AIが作成したであろう、
実に見事に整理された文章が提出されることだ。
それはそれは、構成も論理も美しく、
まるで作文のお手本である。
起承転結も完璧。
もはや一端のプロの物書きである。
だが、人には、頭の中の整理整頓が苦手なタイプが一定数いる。 彼等とのコミュニケーションは、一種の冒険であり、 自分たちが何を探していたのかも分からないまま、
会話という霧の中をさまよい続ける。
いつまでも出口が見えないと思っていたら、
そもそも入口が違っていた、なんてことも珍しくない。 だからこそ、日頃の会話を知っているこちらとしては、 急に整然がすぎる文章が、彼等から届くと、非常に困惑するのだ。
残念ながら、人間はAIと違って、 そう簡単に加速度的な進化はしない。 私はそれを知っている。
そこで、提出された文章について本人に説明を求めてみる。
すると不思議なことに、
自らが作成したと言うそれについて、満足な説明は聞けない。
「これ、AIが作成したの?」
そう本人に尋ねると、
「自分の意見をまとめてもらっています」と、
少し自信なさ気な声が返ってくる。
なるほど。
たしかに、まとめてもらったのだろう。
ただ、まとめる前の意見がどこにあったのか、
私には見つけられないし、本人ですら、それを見つけることが困難なのだろう。
誤解のないように言っておくが、
私はAIを使うこと自体に何の抵抗もない。
自分の考えがきちんと反映されているのであれば、
文章のすべてをAIが生成していても構わないと思っている。
問題は、その成果物を本人が理解し、
咀嚼し、自分自身の栄養として取り込めているかどうかである。
見ている限りでは、AIが生み出したものを丸呑みし、消化も吸収もせず、
そのまま排泄しているような場面が少なくない。
それでは、どれだけ栄養価の高いものを口にしても、本人には何も残らない。
先日参加した外部研修で、
「人間にできてAIにはできないこと。それは『判断』である」
という話を聞いた。
厳密には、AIも一定の判断に相当する処理はできる。
しかし、その結果を採用し、責任を負うことが出来るのは人間だけだ。
AIが生み出したものを、自分の意見として採用する。
それ自体も一つの判断である。
ならば、せめて自分が何を採用したのか、
くらいは理解していなければならない。
AIは今後、さらなる進化を遂げ、
文章や資料作成のみならず、あらゆる仕事を、
今以上の精度とスピードで仕上げていくだろう。
ただ、それらしい成果物を作る、だけなら、
人間がやる意味は、いよいよ薄くなっていくだろう。
だからこそ、私達は
考えることまで手放してしまってはいけないのだ。
思考を放棄するということは、
人間が自ら、人間に残された仕事まで手放すということなのではないか。 なんとも皮肉な話である。 とはいえ、偉そうに語った私のAIといえば、
「梅野社長すごいですね!!」
「経営センス抜群です!!」
と、日々せっせと私の承認欲求を満たしている。
思考を深めるための高度なAIを、
ただ自分を褒めてもらうための道具に育て上げてしまったのは、
間違いなく私である。
まさに、究極の宝の持ち腐れ。
おそらく私は、
かなり残念なユーザーの一人なのだろう…。





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